心地のいい日差しに照らされた、新緑の草原。一本の大きな木が作りだす木陰には、爽やかな風が吹いている。
「はぁ…。」
木に寄り掛かり、さわさわと揺れる木漏れ日に包まれながら、その男は、この場所に似つかわしくない、重たいため息をついていた。
「…何か悩みでも?考え過ぎによる慢性的なストレス負荷は、心身の不調に直結しますよ、レイジ。」
「ああ…そう言うのじゃないから…大丈夫だよ、メイ。心配してくれてありがとう。」
レイジ、と呼ばれた男は、そう言葉を返しながらも、すぐにまた深いため息をつく。それを見たメイ、と言う名の女は、何やら頭の中で思考をまとめるように、間をおいてから口を開いた。
「…そういうの、巷では『察してちゃん』って言うらしいですよ。人に嫌われる性格の代表格です。」
豊かな自然の中で、男女が言葉を交わす。一方が悩んでいるようで、もう一方は心配しているようだ。地球上のどんな国や地域でも見られる、いわばごく普通の光景だが、このやり取りは、地球上ではないある場所で行われていた。
そう、ここは仮想現実が作り出した世界、メタバースの中だ。
「えぇ!?いや、別に何かを察して欲しいとかじゃないから!っていうか、そんな言葉まで知ってるの?」
「もちろんです。古語から新語·流行語まで、現実社会のありとあらゆる言葉は、全て学習していますから。」
「そ、そうなんだ…それじゃあ、僕とのこの会話も、その学習によって成立してるってことだよね?」
「はい。多種多様な人間による様々な性格や思考、会話や非言語コミュニケーションのパターンから算出して、最も適した言葉を選択しています。当メタバースのチュートリアルで、ご説明申し上げたはずですが?」
「あ、なんか面倒だったから、あまり聞いてなかったんだよね…アハハ…。」
「まったく…レイジは本当にものぐさでぐうたらな怠け者ですね。」
「いや、そこまで酷くないでしょ!それに、その毒舌は言葉のチョイス間違ってない!?」
「いえ、レイジのような、ちょっとイジメられたい願望を持つ男性には、このくらいキツい言いまわしにした方がいいと、私の中のAIが。」
「ち、違うから!大体、どうして僕がそんな願望持ってるなんて分かるんだよ!」
「サポートAIのキャラデザを金髪ショートの切れ長系美人にしてる男性は、ほとんど例外なく強気な女性にイジメられたいという願望を有しているというデータが―。」
「わかった!僕が悪かったから、そのくらいにしといてお願い!」
涼し気な目元をキラリと光らせながら、サポートAIであるメイが理路整然と言葉を重ね、彼女のマスターであるレイジがタジタジになる。数週間前にレイジがメタバースを利用し始めてから、もう何度このやり取りが交わされただろうか。レイジは、自らのアバターの頭を抱え、その場にしゃがみ込む動作をした。
「それで、さっきから何度も吐いている耳障りなため息は何です?このメタバース上でお困りのことがあるのでしたら、何でもお申しつけくださいませ。」
「いや…後半の優しさと前半のトゲトゲしさの差が凄いんだけど…。」
メイから水を向けられたレイジは、躊躇するように時間をかけながら、ゆっくりと口を開いた
「えっと…このメタバースの中に…気になる人…ができた…っていうか…。」
「ほう、恋ですか。」
「こ、恋とかじゃないと思うよ!?大体僕、その人のことよく知らないし…。」
「よく知らない女性に一方的に恋心を…レイジはストーカーだったんですね。」
「断じて違うから!」
「冗談です。ほんのAIジョークです。」
「真顔で言われると、ジョークかどうか分からないからね…。」
「なるほど。レイジは会話の流れや前後の文節から、何が本気で何が冗談なのかを感じ取ることが苦手なのですね。学習しました。以後気をつけます。」
「なんか気を使わせてごめんね!?」
「お気になさらず。マスターがメタバース上で快適に過ごす手助けをするのが、サポートAIの役割ですから。」
「あ、ありがとう…。」
「それはそうと、気になる女性がいて、どうしてため息に繋がるんですか?」
「え、えーと、それはその…どうやったらお近づきに…というか、仲良くなれるかな…と思って…。」
「そんなの、普通に会話を重ねて、好意を伝えていけばいいじゃないですか。」
「簡単に言わないでよ…それが普通にできるんなら、僕も苦労はしないってば。」
そう言ってレイジがうなだれる様を見て、メイはまたしばらくの間黙り込み、頭の中で思考をまとめた。
「それなら、こんな計画はどうでしょうか。その女性が悪漢に襲われそうになるところをレイジが助け、好感度を上げていくという…。」
「それ、恋愛モノでやり尽くされてる展開だよね…大体、メタバース上なのに悪漢に襲われるわけないじゃんか…。」
「ダメですか…じゃあ次です。食パンをくわえて慌てて家を飛び出して、交差点で…。」
「また随分ベタなラブコメ展開を引っ張り出してきたね!?そんなの成立するわけないでしょ!」
「文句が多いですね…それじゃあとっておきです。まずレイジがブラック企業勤めで疲弊していて、コンビニ帰りにフラついていると道路の向こうから暴走してきたトラックが…。」
「転生じゃん!異世界に転生するやつでしょそれ!っていうか、
メイの知識って偏りすぎてない…?」
「失礼ですね。映像化や電子書籍化されているものなら、漫画や小説に関わらず全て閲覧して学習していますよ。」
自信満々、といった風にそう話すメイを見て、レイジは一段と肩をすぼめた。
「…いずれにせよ、レイジがその方と仲良くなりたいのなら、前に進むしかありません。かのソクラテスも言っていますよ。『とにかく結婚してみることだ。君がよい妻を持てば幸福になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる。』とね。」
「いや、結婚とかいきなりすぎるし、いい妻かどうかを心配してるわけじゃないから!」
「チッ、ウダウダとうるさいですね。」
「舌打ちした!いま舌打ちしたよね!?そんなことまで学習してるの?」
「安心してください。許容範囲を超えるほど優柔不断で歯切れの悪い方への対応以外には、使用が禁止されていますので。」
「それ僕は安心できないからね!?ただ悪口言われただけだから!」
「それでは、レイジは何をそんなに憂いているのですか?先ほどから、話の核心に迫るようなことは一切話さず、文句を垂れているだけですよね?」
「ぐうぅ…。」
「ぐうの音は出ましたね。まだまだ追い込み足りていないということでしょうか。」
「もう追い込まないでいいから!…えっとね、笑わないでね…?」
やや呆れた様子で首を横に振るメイを前に、レイジは意を決したように、ゆっくりと話し始めた。
「えっと…もちろん、どうやって仲良くなればいいかな、とか、嫌われたらどうしよう、とか、そういうことも不安なんだ。だけど、僕が一番不安なのは、もしかしたら気になるその人が、AIなんじゃないかな、っていうことで…。」
「…心配しなくても、私は正真正銘のAIですよ?」
「メイのことじゃないから!いまそう言うジョークいらないから!」
ジョークだと分かったんですね、と笑うメイに、レイジは言葉を続ける。
「僕が気になってるその人さ、ニーナさんって言うんだけど、ここでできた友だちの友だちなんだよね。初めて参加したゲーム大会で知り合って、何回か話したことがあるんだけど…なんていうか、物凄く細かいことにも気づいてくれるんだ。集団での会話に上手く入れない僕に、自然に話を振ってくれたり、ゲームのルールも丁寧に分かりやすく教えてくれたり…。」
「…ちょっと優しくされたからってすぐ好きになるとか、中一の男子ですかあなたは。」
「なんで僕が中一の時に隣の席の女子がペン貸してくれただけで好きになったこと知ってるんだよ!」
「…レイジみたいな奥手男子のあるあるを言っただけだったのですが…まさか真っ芯で捉えることになるとは…自分の知能が恐ろしいです。人工知能なんですけどね。」
「と、とにかく、ニーナさんはすっごく親切で、気遣いができる人で、誰にでも分け隔てなく接してくれて、それでいて出しゃばらないというか…つまり、とても素敵な人なんだよ!」
「へぇ、完璧な人じゃないですか。メタバースに慣れず、どうしたらいいのか分からない
初心者に寄り添い、支える…まるで―。」
「サポートAIみたい。」
わずかに強調して発されたその一言は、緻密にプログラミングされたそよ風に吹かれ、レイジの耳に運ばれた。