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黎明

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日浅慎吾《ひあさ しんご》は仕事中だった。

 最低限の家具やインテリアを揃えたようなシンプルな部屋。

 慎吾の眼前には宙で複数のウインドウが表示されており、手元に浮く半透明のキーボードを用いて、一つの文書を作成していた。

 そんな彼の傍で控えているメイド姿の女性が、何らかの作業をしていた様子など見せずに言う。

「マスター、ご依頼の資料の準備が出来ました」

「ありがとう」

 

 慎吾は新たに表示されたウインドウ内の文章に目を通すと、指を動かすことで必要な部分をコピーして作成している文書にペーストしていく。

 仕事の進行は順調だ。これなら定時までに終えることが出来るだろう。

 慎吾の視界では当たり前のように両手が動いている。無論、それを動かしているのは彼の意思であり、そこには何らの違和感もなく、馴染んでいる。

 ──けれど、これは現実世界での光景ではない。

 慎吾には今動かしている身体とは別に、確かな身体感覚があった。専用のチェアに深く腰掛けた、彼の本当の身体の感覚が。

 仮想世界《メタバース》『XANA《ザナ》』。それこそが慎吾の眼前に広がっている世界の名称だった。

『XANA』は現在主流となっているメタバースであり、今彼が動かしているのは分身《アバター》だ。仕事用なので、頭上には本名が表示されている。

 慎吾の現実の身体はヘッドマウントディスプレイ《HMD》を装着しており、それが脳波を読み取る機能を備えているので、念じることでアバターを操作できている。

 現代においてメタバース内で仕事をするのは一般的だ。昔は自宅で現実の身体で仕事をすることをテレワークと呼んだが、今はそれよりも進んだ形となっている。

 デスクワークと呼ばれるPCを用いる仕事であれば、メタバース内で何の問題もなく行うことが可能で、むしろ物理的な空間に縛られる必要がないのが利点となっていた。

 こちらには自分をサポートしてくれる存在も用意することが出来た。

 慎吾の傍で控えている女性の姿をしたアバターは、現実の人間が操作しているわけではない。

 彼女の名前はユリ。『XANA』では彼女のようなアバターを非代替性トークン《NFT》として購入することが可能だ。独自の人工知能《AI》エンジンが組み込まれている為、自分好みな言動のパートナーとして調整できる。

 普通に対話する相手としても有用だが、仕事では特に重宝する。例えば、指定の資料の内容を要約したり、必要な要素に関連する部分を抜き出したり、といった作業はお手の物だ。そういった作業を自分で時間かけてする必要がないだけで、仕事の能率がまるで違う。

「……ふぅ、終わった」

 本日分の仕事を終えた慎吾は、目の前に展開していたウインドウをまとめて閉じた。

「お疲れ様です、マスター」

「ああ」

 ユリからの労いの言葉を受け取るが、明るい気持ちとはならなかった。

 仕事などは所詮、生きていく為の作業だ。自分の行いが世界に影響を与えるわけでもない。

 言わば、歯車。それも、いくらでも代わりを用意できる程度の存在に過ぎないのだから。

 世界は変えられない。それなら、楽しいと思うことに集中して目を背けるのが一番だ。

 少し気を休めた後、慎吾はエリア移動用のウインドウを出した。

「それじゃ俺はいつも通り出てくるから、ユリは留守番を頼む」

「かしこまりました」

『XANA』ではランドと呼ばれる土地をNFTとして購入することが可能で、この部屋は慎吾が保有している土地に作成した物だ。

 特に入場制限は掛けていないので、慎吾以外の人間が来訪することも可能になっており、その際の応対はユリが行い、必要とあれば慎吾に連絡が来る。

「おっと、その前にアバターを変えておかないとな」

 慎吾は思い出したように別のウインドウを開いて、タッチした。

 それまでは現実の自分を模した姿だったが、ガラリと変わって侍のような姿となる。

 仕事用のアバターは『日浅慎吾』だと分かることが大事だが、プライベートで遊ぶ分には別だ。今は最近ハマっているゲームに合わせた姿にしていた。

 頭上に表示されていた名前も本名から『SHINGO』に変わっている。

「さて」

 慎吾は公共の場として人が集まるエリアの中から、彼が良く訪れるエリアを選択した。

 瞬間、視界が暗転し、ほんの僅かな時間の後に、和風な雰囲気の広場が現れた。

 周囲に表示された、風で揺らめく紅葉が趣を感じさせる。

 そこには様々な姿のアバターが点在しており、雑談に興じているところもあれば、何らかのゲームを行っているところもあった。

『XANA』ではアバターを使ったゲームが可能で、スタートアップ時に遊べるゲームは随分と限られていたが、今では個人あるいは企業の手で日に日に増えていっている。

 慎吾もこのエリアにやって来たのは一つのゲームをする為だった。

 その名も『SAMURAI』。外国人がイメージするような侍を体感できる対戦アクションゲームだ。

「おっ、来た来た」

『SAMURAI』をやっているプレイヤーには自由に対戦を申し込むことが出来る。慎吾は早速、自分への対戦申請が飛んできたので、迷わず了承した。

 途端、広場にいたアバターが一斉に姿を消す。たった一人を除いて。

 慎吾とは正反対、白基調でツルっとした未来的な服に身を包んだ男性アバターが立っており、頭上には『Joker』と表示されていた。

 一対一で戦うので、邪魔にならないように他のアバターは見えなくなる。特別な設定をしない限りその場にいる者達の観戦は自由で、彼らの声だけは対戦中の者達にも届く。

「おい、SHINGOとJokerが戦うぞ!」

「今回はどっちが勝つかな」

「最近のSHINGOは動きがやべぇし、Jokerじゃもう相手になんねぇだろ」

 そんな会話を耳にしながら、慎吾はJokerと相対する。両者の手には日本刀が握られており、視界の上には両者の緑色の体力ゲージが表示されていた。

 Jokerとはこれまでも何度か刃を交えてきた。『SAMURAI』を始めてすぐの頃は相手の方が強かったが、ここ何度かは勝ち越している。正直、もう負ける気がしない。

『いざ尋常に──勝負!』

 視界の中央に表示された勝負開始の合図と共に、Jokerは一気に肉薄してきて刀を振りかぶった。

 恐らく刀で防いでも横や後ろに躱しても、相手はその後の動きまで考えているだろう。

 なら、これはどうだろうか。

 慎吾は一つの動きをイメージする。自分の現実の身体では決して出来ない動き。

 アバターの操作は現実の自身から乖離すればするほど難しくなる。

 にもかかわらず、慎吾が高い解像度で出力したそれは、脳波を通じてアバターへと滑らかに伝達される。

「なっ……!?」

 Jokerは思わず驚愕の声を上げる。

 その瞬間、慎吾の視界は上下が反転しており、Jokerを見下ろしていた。体操選手のように半回転しながら高く跳躍したのだ。

 慎吾は曲芸じみた動きを披露し、Jokerの首を真上から刈り取った。相手の体力ゲージが一撃で消滅する。『SAMURAI』ではこのような致命傷は即敗北だ。

『勝者、SHINGO』

 そう表示されると、消えていた他のアバターも元に戻った。

 観客達が沸いており、慎吾の目の前には膝をついたJokerがいる。

「くそっ、でたらめな動きしやがって……覚えてやがれ!」

 Jokerはそう言うと、どこかに消えた。エリアを移動したのだろう。

 慎吾はその後も十戦ほど楽しんでから『XANA』を終了した。

 無論、結果は全勝だ。最近は調子が良すぎて困るくらいだった。アバターが現実の身体以上に思うように動かせている気がする。

 脳波で動かしていても、現実の身体が僅かに反応するのは良くあることだ。

 けれど、今の慎吾は動いていると感じた覚えはない。無駄なく脳波がアバターに伝達されているように思う。

 そのお陰か、『SAMURAI』でも他のプレイヤーには出来ないような動きが可能となっていた。

「…………」

 HMDを外した慎吾はぼんやりと自室の壁に目を向けながら、ふと違和感を覚えた。

 自分の身体が自分の物ではないような感覚。心と体の間に薄い膜のような何かが挟まっているように思える。

 前はそんなことはなかったが、最近は『XANA』から現実に戻ってくると、いつもこうだった。

 メタバースに入り浸っているとたまにこういうことがあるらしい。離人症という病気が誘発されてしまうようだ。

 少しすれば元に戻るので特に問題はないが、放っておくのも良くないだろうか。

「病院に行った方が良いかもしれないな」

 そんな風に思いながらその日は食事や風呂を済ませて眠りに就いた。

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