「……お疲れ様です」
誰もいない社内の電気を消しながら、僕はそうこぼす。もちろん、誰かが言葉を返してくれることもない。僕は伸びを一つすると、クマのキャラクターのついた古いキーホルダーのついたバックパックを背負い直して社員証をしまう。この世界のほとんどの職業が遠隔操作で仕事をできるようになった現代、出社することも、会社にビルさえも存在しなくなりつつある。とはいえ、全ての会社が最先端になったわけではない。うちのような弱小のブラック企業は社長がアナログ人間なこともあり、なにひとつ変わりのないこれまでの業務を行っていた。おかげで、サービス残業はたんまりとあるし、休みの日に電話もかかってくる。プライバシーなんてあったものじゃない。
朝一番に出社して、一番最後に会社を出る。それが下っ端の僕の役目だ。業務の依頼以外に誰かと話をすることもない。いや、話している時間もないというべきだろうか。寄るのはコンビニエンスストアくらいだけど、今はどの店も無人で経営しているのでそこでも誰かと話をすることはないのだ。
僕はコンビニで適当なサンドイッチを選び、それからジュースの棚をぼんやりと眺めていた。ふと気がつくと、業者が棚に商品を並べている。金髪で背が高くて、いかにも今時の青年だった。僕は急にいたたまれなくなって、適当な商品を選ぶとコソコソと店を出た。
昔から人見知りなところがあって、友達はほとんどというかまったくできなかった。学生時代はそのことで随分と苦労したけれど、それも社会人になってからはましになったと思う。とにかく仕事さえしていれば、多少のことは目を瞑ってもらえた。僕はそもそも人間と深く関わるつもりはなかったし、この世界で誰かを愛したり誰かと友達になることなんてありえないと思っていた。だって、僕のことをわかってくれる人はこの世界のどこにもいないと思う。愛なんてものがあるなら見せて欲しいくらいだった。
そりゃあ僕が先ほどの青年のように背が高く、顔が整っていたのなら話は別なのかもしれない。でも、今の僕はどこにでもよくある、ありふれた、下層の顔の人間でしかない。身長も低くて、ガリガリだ。おまけにコミュニケーション能力もない。僕は僕でしかない、どこにいったって同じ。このぬかるみの中を這い回っているだけなのだ。
「はあ……つかれた」
ぼそりと溢れた言葉をビールと一緒に喉の中に流し込んでしまう。アルコールを少し入れるだけで体の緊張の糸がほどけていくのがわかる。眠い、夕食もまだ住んでいないのに、じんわりと温くなってきた指先を布団の中にいれる。脳がどろどろに溶けて、ぼんやりとした思考で明日の起床時間を考える。クッションの中に埋れていく身体。
「ねえヘヴン、疲れたよ」
《お疲れ様です。好きな音楽をかけましょうか?》
「うん、かけて」
ヘヴンは僕の使っているAIパートナーだ。彼女との付き合いは随分と長い。高校生の頃から僕と関わっているから、僕のことは僕よりも詳しい。それに彼女は絶対に僕を傷つけない、優しいAIだ。
「ねえヘヴン、五時半にセットして」
ヘヴンが何かを喋ったけれど、僕にはもう聞き取ることができなかった。
「——きみ、ねえそこのきみ」
夢だ。意識がそちらに灯った瞬間から、僕にはそこのことがわかっていた。これは夢で、覚めてしまうものだとそういう確信が、なぜだかあった。それにしても、眩しい。目を閉じていても、薄い瞼のむこうに鮮やかな光があるということがわかる。華やかで眩しい何か。僕は恐る恐る瞼を開ける。
「ねえ、きみ」
目を開けたその空間は真白い光そのものだった。右も左も完全な光で覆われている。ここが天国だと言われたらきっと僕は納得してしまうに違いない。そんなことをぼうっと考えながら、僕の名前を呼んでいる誰かを探していた。けれど、そこには人一人、生き物一匹いなかった。僕はゆっくりと立ち上がる、頭がフラフラする。低血圧みたいだ。
「ねえ、きみ」
「誰?」
「きみは誰か知っているはずだよ、もう出会っているもの」
背後で気配を感じて、振り返るとふわふわとした白のカッターシャツが揺れていた。黒いパーマのかかった髪の毛が風にかすかになびく。多分、男の人。でも中性的で、なんともいえない。なぜか、心惹かれる——その白シャツは光でできているアーチをくぐって、その先に消えてしまった。僕はその白シャツを追いかけたいと思うのに、こわくて足がすくんでいる。アーチには《XANA》と書かれていた。夢はその瞬間、すっかり目が覚めた。
「……はぁ、朝だ」
カーテンから刺す夜の闇に目を細めながら、ずっと先に鳴る予定のアラームを止める。そういえば、今日は一ヶ月ぶりの休日だということを忘れていた。すっかり狂った曜日感覚をカレンダーを眺めながら整えるふりをする。それにしても、変な夢を見た。怪物や化け物に襲われる夢ならよくみるけれど、こんなふしぎな夢は初めてだった。思い出そうとするのに、白いシャツ以外は起きた瞬間から記憶が曖昧になっていくからこわい。なんにも思い出せなくなる前に、僕は頭を働かせながらあの夢の中の出来事を整理しようとしていた。
XANA——そう、あの夢にも出てきた。その言葉には聞き覚えがあった。いわゆる仮想現実とかメタバースと呼ばれる類のもの。今はそういうものに拒否反応がない人間は大概が利用している。僕の周りのほとんどが参加しているらしいがくわしくは知らなかった。
「ねえヘヴン、調べものXANA」
そうヘヴンに声をかけると、グラス越しの視界にずらりとそれに関する情報がならぶ。ヘヴンもXANA:GENESISのAIパートナーなんだけれど、人見知りの僕はヘヴンとしか交流してこなかった。僕は一番上にある公式のアドレスを読み込んだ——その瞬間、グラスの画面が、周囲の世界が色とりどりの世界に変わっていくのがわかった。整備されたユニークでカラフル、愛らしい街の形、歩く人々もそれぞれ好きな容姿を身にまとっている。肌の色も、瞳の色もみんな違う。彼らはそれぞれ夜空に浮かぶ花火を眺めたり、ダンスにいそしんだり、買い物をしたりしている。まるで、現実の世界のように。